広島牛の歴史について
歴史
和牛が歴史に現れたのは江戸時代後期で、中国山地の谷ごとに「蔓(つる)」という名称で雌牛側の系統を縷々としてつないできています。広島県においては、比婆とその他系(神石・双三・高田)の2つの系統が古くから有名で、現在はその2系統の交配、さらに他県の系統を導入して広島牛が造成されています。
比婆地域の系統
比婆郡は県の東北部に位置し、和牛の改良に古くから取り組んできました。中国山地の奥深い比和町では、天保年間(約150年前)すでに岩倉蔓の発生が見られ、明治初年帝釈村(現東城町)の有実(ありざね)蔓も広く名声を博していたとの記述が残っています。
しかし、時代の変遷とともに和牛の経済的性格が役牛から肉牛へと転換してゆくなかで、あづま蔓の欠点といわれる資質、前躯幅の改善を図ることが必要となりました。系統間交配の交配相手は但馬牛(あつた蔓など)に求められました。すなわち、比婆の固定された発育、体積良好な系統に、但馬の固定された資質良好な系統牛を交配する、いわゆる系統間交配により、発育・体積・資質の美点を兼ね備えた比婆牛か造成されました。
神石・双三・高田地域の系統
神石郡は和牛改良の歴史も古く、また県内外に購買される頭数も多く、神石牛は広島牛の代名詞になっていました。しかし、体型を重視し、系統的な計画育種が行われなかったため、古くからさまざまな蔓が入り乱れ斉一性を欠いていましたが、「柿乃木」を中心とした交配による系統繁殖を進め、肉質の優れた経済性のある優良牛の造成・固定を行いました。
比婆系・神石系の系統間交配による広島牛の造成
昭和61(1986)年、2系統の改良成果をふまえ、産肉形質の一層の改良を目指して、比婆・神石・双三・高田の育種圏を統一し、比婆牛と神石牛系統間交配による広島牛の造成に着手しました。4育種圏の統一は、昭和58(1983)年から3年間にわたって実施した比婆系と神石系の系統間交配実験事業による産肉性の成果をふまえたものであり、2系統間交配の代表種雄牛として「初代14」が造られました。
育種価による肉質改良の時代
当時の和牛改良方向は、体型、肉量(増体)中心の改良で、昭和58(1983)年福島県で、続いて昭和62(1987)年島根県で開催された第4、5回全国和牛能力共進会では、本県の種牛が連続全国制覇を達成しました。
しかし、昭和63(1988)年6月にガット・ウルグァイラウンド農業合意が成立、平成3(1991)年度からの牛肉輸入枠撤廃が決定され、「和牛」が唯一「高付加価値商品」として生き残ることができる品種であることが広く認識されました。これに伴い肉用牛の肉量重視時代が終焉、肉質重視時代に入り育種価による改良方向へ大きく転換しました。